戦国期に活躍した忍者その忍者の源流をたどる。

暗黒部分に生きつづける忍者・忍術

忍者とは何か?

暗黒部分に生きつづける忍者・忍術

諸国へ散った伊賀衆のうち、一部は諸藩に召し抱えられ、伊賀組をつくった。なにによらず〃術″や〃芸“は、弘布伝播されることにあるとしたら、信長がその役割を果たしたことになる。

伊賀に戻った者は、先にも触れたように伊賀無足人となったが、これより先、本能寺の変のさい、徳川家康の最大の危難〃伊賀越え″を助けた伊賀衆は、服部半蔵正成支配のもと、〃伊賀組同心″として徳川家に召し抱えられた。一方、関ヶ原の戦いで働いた甲賀衆は、甲賀組として取り立てられた。伊賀組・甲賀組は平素、江戸城を守護し、銃砲術を磨き、必要あれば隠密役として出張した。そんな役目、そんな立場の直参となったわけである。これを出世といっていいかどうか、あるいは当人たちが喜んだかどうかはわからない。彼らが身につけていたのは戦いのための技術が主であったが、泰平の世は本来あるべき忍者の姿を消滅させた。そのありようは治安・行政の末端に組み込まれた下級役人の姿だった。

 松浦静山の『甲子夜話』には、「自分の藩士の中に、伊賀出身の柘植姓の者がいて、祖先は忍術をもって仕えたが、すでにその術は廃絶し、本人はまったく知らない」という話が述べてある。実状はたぶんそうだろう。役職も変わり、隠密という仕事も、多く〃公儀隠密″(徒目付T蜘岬小人目付系列)や、〃御庭番〃にとって代わられた。隠密仕事の趣旨・内容そのものも変わった。その一は、治安である。この治安は〃百姓一摸″への監察にあった。伊賀無足人の存続も、ほとんどそのことにあったと思われるが、諸藩、たとえば川越の松平大和守の伊賀組衆は、自領ばかりでなく、幕府領の飛騨高山の百姓強訴事件の探索にまで当たった記録がある。その実は、当初、不隠大名家の取り潰しをねらい、罪状となるアラを探したものだったが、やがて同じ探索結果を、幕府は大名家を存続させるために用いるようになった。たとえば、酒色にふける藩主や私欲に走る重役、あるいは領民の不平不満があれば、それとなく教示する。いわば行政指導である。なぜ幕府がこのような措置をとったかといえば、島原の乱や慶安四年(1651)の由比正雪事件(慶安事件)以後、浪人問題についておそろしく慎重になったからである。

実際、大名家を潰せば、おびただしい浪人l失職者が出る。幕府はその取り締まりや始末に自信がなくなっていた。そこで、格別なことがない限り、潰すことなくもちこたえさせようというのが本心だったのである。その三は、忍者ないし隠密を使うまでもなく、事前に諸大名家の内情を報告させることだった。そのもっとも典型的なものが、城絵図の調達である。 

こんにち〃正保城絵図〃というものが、七十葉ばかり残っている。
統一的な描法・図式・色分けを義務づけ、本丸や一一ノ丸、三ノ丸の間数、堀の深さ、城より高いところがあれば城との距離、城下町割の様子、街道・船渡りのことなどが記され、なかなか精密である。
諸大名は幕命のまま調進しているが、なかには必要もないのに井戸の場所や沼田の位置、深浅を描いたものもある。幕府への屈伏、迎合にほかならない。すでにこの時代、ほとんどの大名は城の要塞としての役割を否定していた。こんなところへ、黒い忍者装束で潜入する必要はなく、またその効果もない。
問題はさらに、忍者ないし隠密それぞれの教養、識見そのものにあった。もはや相手方に忍び込んで、放火あるいは暗殺すればいいというものではない。
流通経済下に移行する財政・経済の心得、進出する産業技術の知識、学問普及によるいわば思想的判断など、それらがなければ単にうろうろ俳個するにすぎない。
たとえば、黒船に忍び込んだにせよ、機関や火砲の知識がなければ、なんのための探索かわからない。
とはいえ、人間ないし人間社会がもつ暗黒の部分は変わらない。したがって、伊賀者・甲賀者が用済みになっても、いわゆる忍者や忍術は生きている。こんな話もある。幕末のころ、御庭番の川村修就は、新潟奉行や長崎奉行を歴任した。彼は、若いころ北陸地方へ飴屋に化けて潜入していたが、新潟奉行に累進して赴任すると、顔を覚えている者がいて、
「今度のお奉行さまは、どこそこにいた飴屋だ」といったという。こんな話は楽しい。

不可思議・不気味な忍者たち

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